仁木悦子の年譜



西暦 年齢 生い立ち
昭和3年
(1928年)
0才 3月7日
東京府豊多摩郡渋谷村(現・東京都渋谷区)の日赤病院で四女として生まれる。

三女夭折のため事実上三女として本名は大井三重子と名付けられた。
父 大井光高・母 大井ふく
父の転勤で富山へ移る。
昭和6年
(1931年)
3才 病気がちとなり前年より通っていた幼稚園を退園。
昭和7年
(1932年)
4才 胸椎カリエスにかかる。歩行不能となり横臥生活となる。
昭和10年
(1935年)
7才 3月、父 光高死去。
母に付き添われ神戸のサナトリウムに入院。
兄姉たちは東京へ戻る。
昭和11年
(1936年)
8才 6月、サナトリウムを退院。
東京の滝野川区(現・北区)上中里に母や兄たちと住む。
昭和14年
(1939年)
11才 3月、世田谷区経堂町に転居。
次兄 義光による家庭学習開始。
昭和16年
(1941年)
13才 長兄 栄光が中国山東省にて戦死。
昭和18年
(1943年)
15才 4月、次兄入営。
8月、母 ふく病死。
昭和20年
(1945年)
17才 3月、次兄に付き添われ富山へ疎開。
昭和21年
(1946年)
18才 3月、世田谷区経堂に戻る。次兄一家と共に住む。
昭和28年
(1953年)
25才 宮沢賢治の童話集に強い感銘を受け、秋頃から童話を書き始める。
昭和29年
(1954年)
26才 童話「白い雲・黒い雲」が「こどもクラブ」に入選。
これ以来「大井三重子」の名前で執筆。

秋に、童話仲間と同人誌「にじ」を発刊。
昭和30年
(1955年)
27才 「母の友」「婦人朝日」などの童話募集の常連となり、文章を書くコツをのみこむ。
昭和31年
(1956年)
28才 河出書房長編推理小説全集の応募作「猫は知っていた」が選外佳作となる。
この作品よりペンネーム「仁木悦子」を使い始める。
別冊として出版予定だったが倒産のため中止。
昭和32年
(1957年)
29才 宝石に「黄色い花」を掲載。(処女作)
「猫は知っていた」が第3回江戸川乱歩賞を受賞。
11月に講談社より刊行、10万部を超すベストセラーとなる。
昭和33年
(1958年)
30才 大映映画「猫は知っていた」「かあちゃんは犯人じゃない」公開。
「粘土の犬」が第11回日本探偵作家クラブ賞の候補となる。
2月、東京都新宿区戸山町にある国立身体障害センターに入所。
5度の手術で車椅子の生活ができるようになる。
昭和34年
(1959年)
31才 「かあちゃんは犯人じゃない」が第12回日本探偵作家クラブ賞の候補となる。
宝石に「林の中の家」の連載が開始。
またこの頃にセンター内でラジオの組み立て等を覚え始める。
昭和35年
(1960年)
32才 1月、国立身体障害センターを退所、経堂の家に戻る。
昭和36年
(1961年)
33才 9月、女流推理作家団体「霧の会」を結成。代表を務める。
東都書房より童話集「水曜日のクルト」を発刊。
昭和37年
(1962年)
34才 6月24日、障害センターで知り合った翻訳家 後藤安彦氏と結婚。
世田谷区砧に住む。
昭和40年
(1965年)
37才 3月、国立身体障害センターの医療問題に関して座り込みに参加。
昭和46年
(1971年)
43才 「冷えきった街」が第25回日本推理作家協会賞の候補となる。
12月、”戦死した兄を持つ妹”たちの「かがり火の会」を発足。
昭和47年
(1972年)
44才 7月、「妹たちのかがり火」刊行。
昭和49年
(1974年)
46才 「灯らない窓」が第28回日本推理作家協会賞の候補となる。
昭和50年
(1975年)
47才 「青じろい季節」が第29回日本推理作家協会長編賞の候補となる。
昭和53年
(1978年)
50才 11月、国立大蔵病院で腎盂腎炎と診断され、入院。
昭和54年
(1979年)
51才 1月、国立大蔵病院を退院。
夏、夫と共に九州旅行。
10月、東京都のペット条例に対して「自然と動物を考える都民会議」を結成。
昭和55年
(1980年)
52才 6月、国立大蔵病院に再入院。
8月、小康状態となる。
昭和56年
(1981年)
53才 4月、「赤い猫」が第34回日本推理作家協会短編賞を受賞。
昭和58年
(1983年)
55才 8月、安彦と安房鴨川へ一泊旅行。
これが最後の夫婦旅行となる。
昭和59年
(1984年)
56才 1月、救急車で緊急入院。
国立大蔵病院満床のため至誠第二病院に入院。
2月、至誠第二病院退院。
昭和60年
(1985年)
57才 2月、砧の家の近くにひとまわり大きな家を建て転居。
8月、4度目の入院、腎臓の症状悪化が告げられる。
昭和61年
(1986年)
58才 5月、「かがり火の会」15周年記念の集いを新宿で開く。
健康上の理由で「自然と動物を考える市民会議」代表を辞任。
11月17日、国立大蔵病院に入院。
11月23日午後2時27分、腎不全の為逝去。

11月25日、砧の自宅で密葬。
12月6日、青山葬儀所にて本葬儀。

(後藤安彦著「猫と車イス」 仁木悦子年譜 および 集英社「新日本文学全集2」 仁木悦子年譜より引用抜粋)